1999年5月26日水曜日。正確には午後7時32分56秒。何やら後頭部にガーンとそいつはやってきた。普段の其の時間はまだまだバリバリの仕事中である。その日もまたいつものように仕事をしていて、そろそろラストスパートをかける時刻であった。大体この時刻で終わりのメドをつけないと今日中には帰れなくなってしまうのである。普通 は。
「何か寒けがするぞ。」
そう思った瞬間、頭がぐるぐると回りだし、にわかに思考能力が低下し、それと同時に全身を支える筋力が無くなり、腰の付近がやたらめったら痛みだしたのであった。
「何かヤバイ。」
経験上、こういうような状態に陥った場合、それは緊急事態だと見てよいことは分かっている。しかし、まだ今日の仕事が完結していないので、もう少しだと頑張ろうとしたが、いざ立ち上がろうにも腰に力が入らない。既に腰砕け状態である。そうしているうちに姿勢は次第にうつ伏せになり、まるで机の上で居眠りをしているかのような状態になってしまった。
「う~ん、どうするかな~。」
体は完璧なダウン状態にあるのだが、意識だけははっきりとしている。どう考えても今すぐ帰宅する手である。どちらにしてもこのまま仕事を継続する事は不可能とみた。ここでちらりと隣を見ると、この苦しみの事を知る由もない男が一人黙々と仕事をしている。この男は私がいつもこうやって仕事中に仕事をしているふりをして居眠りをしていることを知っているので、別にとりたてて不審にとは感じてはいない。この辺りは案外お互い様ともいう。
「悪い、今日はこれで帰るわ。何だか急に体調が悪くなった。」
「あ~、そうですか。お疲れ様です~。」
この隣の男。多少不審な顔をしたが、この男は普段私が仕事をやりたくなくなってくると、他人の迷惑顧みずさっさと帰ってしまうという事をよく知っているので、またいつもの『病気』が始まったという位にしか考えていない。でもこの場合、とりあえず『病気』という点では正解である。
「それじゃ、お先。」
「お疲れさま~。」
多分お互いの思考に若干の食い違いがある挨拶がなされ、帰ると判断してからわずか3分25秒後には帰宅の人となったのである。
私の家は会社から距離にして約40キロ離れている。通常この距離を徒歩通勤する人はまず居ない。自転車でも多分きつい。一般的にはこの場合、会社から名古屋駅迄は地下鉄で、名古屋駅からウチ迄はJRを利用することになる。それでも1時間以上はかかる。
まずは新栄町駅から地下鉄に乗る。当然座ることが出来ない。でも、この時点ではまだまだ立ち続ける事が可能であったため、素知らぬ顔をして立っていた。とりあえず私の目の前に座って声高々に喋っているミニスカで細いまゆ毛のジョシコーセーどもには私の苦しみは分からないだろう。ついでに言うと、隣に立って携帯電話でけたたましく喋っている若ゾーにも、無論、後ろに立っている化粧が濃いおばはんにも分からないだろう。
そうしているうちに、どうにか名古屋駅に到着した。この名古屋駅は地方都市でも全国的には大手の部類に入るのにも関わらず、エスカレーターの設置率が著しく悪い駅である。特に私が普段からひいきにしている地下鉄東山線からJR名古屋駅の東海道本線大垣方面ホームへの通り道には1本もエスカレーターが設置されていないのである。およそ地下2階から地上3階に相当する高低差を全て階段で賄われている。
普段ならばこのような事を考える間もなくさっさと階段を昇ってしまうのだが、この日はこの階段がやたら苦痛になった。この時、たまたま傘を持っていたので傘を杖のように使いながらどうにか階段を上がるが、次第に体中から脂汗がにじみ出てくる。
JR名古屋駅の桜通口は新装開店したばかりの新しい入り口である。その改札口の前で暫く悩む。この改札口の上に電車の発車時間を集中表示しているのである。この時間の電車は8両が来ない限り、まず座れない。一番の先発電車は7分後の快速大垣行きだが、あれは4両編成である。長年の経験からどの時間の列車が8両かという事は大体分かっている。その次の普通 電車はもしかすると3両。いや、下手すると2両の電車がやってくるかもしれない。多分というか絶対にこれも座れないだろう。
どうしようかと考えたときに、その次に『ホームライナー』が控えているのを発見した。この電車、いわゆる指定席車両で、指定席料として310円也を支払う必要がある。普段から小遣いの支出に対しリストラを敢行している私としては、ばかばかしいので絶対に乗ることは無いのだが、今はこれが救いの神様のように見えた。ただし、発車まで20分近く待たなければならない。
体調はさらに悪化しているようだった。その待ち時間をどこかのベンチで座っていようかと思って回りを見渡すが、改めて考えると名古屋駅はベンチが殆どと言って無い駅である。いや、全く無いと言い切ってもあながち間違いではない。仕方無いからここは素直に改札を通り、ホームに上がることにした。駅構内にはベンチは無いが、ホームには若干のベンチが設置されているのである。そのままホームライナーが発着する3番4番ホームに汗を流しながら上がり、まず指定席券をゲットしてからベンチを探す。しかし、数少ないベンチは既にサラリーマンの占領下に置かれており、負傷兵の入る余地は無い。仕方ないので階段の壁にもたれかけながらしゃがんでいた。既に頭がクラクラしている。
どうにか電車に乗り込んだ後も、起きているのか寝ているのかよくわからない半生状態で、とにかく降りる駅を間違えないようにするのに精一杯であった。やがて電車は降りるべき駅、穂積に近づいた。電車が長良川を渡るのを見計らってイスから起き上がる。そのまま出入り口方面へ歩き出すのだが、その足取りはまるで酔っ払いの足取りそのものである。
無事に電車から離脱した後、今度は階段を降りなくてはいけない。そう、この穂積駅にも当然ながらエスカレータ設備は無い。ここで当然と言いきったのは、穂積駅は名古屋駅とは比べようが無い程の田舎の駅だからである。改札を出てからすぐに待合室に向かい、そこの公衆電話からウチへ電話し、すぐに迎えに来て欲しいと頼んだ。数年前まではこの公衆電話は行列が出来ている程の人気者であったが、最近では巷では随分と携帯電話が普及したおかげで公衆電話の待ち時間が劇的に改善されたのである。
さて、なんとか自宅までたどり着いた私は着替えて軽く常備薬を飲んでからすぐに、バタンキューと、布団中の人となったのであった。
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