お梅ばあさんはいつも家族の中で朝一番の早起きである。そして、朝も早いうちから散歩へ出かけ、そのついでに畑を点検に行くのが日課となっている。
梅雨の時期が過ぎたこの頃は既に外は明るい。外へ出ると昼間とは違う爽やかな空気に身を包まれる。今日もまた、いつものような一日が始まるのである。
「そんじゃ、行ってくるよ。」
別に返事があるわけでもないが、自分に向けた気合いを入れるつもりで自然に声がでてしまう。
ばあさんの畑は家から15分くらい歩いた長良川堤防の外側にある。外側にあるのだが、そのまた外側にも川があり、ちょっとした中洲になっている。そういえば大昔にえらいお侍さんがこの川に木材を流して一夜にして城を建てたそうだが、とりあえずばあさんにとっては何の関係が無いどうでもいい話である。
「お梅ばあさんおはよう。今日もせいが出るね。」
いつも同じ時間にすれ違うじいさまである。このじいさまは以前から大食らいで有名であり、周りから「そんなんでええのか」と言われ続けていたが、最近になってついに医師から勧告を受けてしまい、いやいやながら毎日5キロの散歩をすることになってしまったのである。
最初の頃こそは杖を使いながらのたのたと歩いていたが、最近では足腰もすっかりと回復し、なんだか歩くのが楽しくなってきたみたい。心持ちか足取りも軽いように見える。ましてや季節的にも朝が気持ちいいし、気温も身体にやさしい。
「この頃は顔色がいいわい。」
ばあさんはそのじいさんの顔を見てそう思った。
ばあさんの畑は広大な中洲の奥の一角にある。畑に到着するやいなや朝露に光る野菜達を一個づつ丁寧に見て回る。そろそろトマトの収穫の時期である。
「おやおや、このトマトが赤いこと。」
まるで自分の子供のように愛おしい野菜達がそこにあった。ばあさんの畑では肥料までも自分で工夫して作るのがいいのか、どの野菜も大きくてツヤがいい。そりゃあ虫が出た時くらいは少しだけ薬を使うが、それ以外には使わない。最近世間では無農薬とか有機肥料とか言っているが、ばあさんはそんな事を言い出す前から自分の経験でやってきた。おいしい野菜を作っていたら、たまたまそういう方法だったって事。
だから、ばあさんの作る野菜はどれもこれも美味しいと近所でも評判である。とはいえ、ばあさん一人で作るだけだから売りに出す程ではなく、せいぜい自宅と近所と、ばあさんの固定客の食卓を賑わす程度である。
ばあさんは、穫れたての野菜を丁寧にビニール袋に詰めて近くにあるお梅ばあさん専用の無人販売所に置きに行くと、どこからか近所のおばはん達が集まってきた。
「ばあさんおはよう。今日も野菜をもらっていくよ。」
「うちの旦那はばあさんのとこの野菜しか食べないんだよ。」
近所のおばはん達はそう言いながら野菜を鋭く選別しているのだった。
さて、毎日の一騒動が終わってからばあさんは一旦畑に戻って今日使う分の野菜を袋に詰め、廻りの雑草取りをしてから手と顔を洗い、一旦家に帰るのである。ばあさんはこの歳になるまで時計を使用した事はないが、帰宅時間はいつも正確であった。
家に帰ると先ほど持ち帰った野菜を井戸水で洗う。ここら一帯はまだ水道が完備されていない。というよりも必要ない。難しいことはわからないが、ここらは長良川の伏流水が豊かにながれており、その為かここら一帯には古くから小さな酒蔵が数多く存在している。いつだったかばあさんが名古屋へ出かけた時に飲んだあのくそ不味い水道の味は忘れられない。水に関してはここに住んでいてよかったと思うのである。
その井戸も最近は電動になったので楽になった。ほんの20年前はまだ呼び水を入れてから漕ぐというなつかしい手動式であった。そういえば畑の井戸はまだ手漕ぎだったっけ。
それから出掛け前に洗っておいた米を釜に入れて点火する。ご飯にしてもこだわりがあって、ほんの10年前までは薪を使用して正真正銘の「お釜」で焚いていた。しかし、ばあさんも歳をとってくるとおっくうになってきというか、体力的に持たなくなってきた。 とはいえ最近の電気釜の味はばあさんの舌に合わない。試しに一口だけ食べてみたらなんだかいやな臭いがしたものだから、すぐに吐き出してしまった。
今更薪釜に戻りたくないし、どうしたものかと考えていたら、出入りのガス屋がどこからかガス釜を調達してきた。電気釜全盛の時代にどこにあったのか知らないが、そのガス釜で炊いたご飯は辛うじて合格点となり、ばあさん自身よりもむしろ周りの人たちがほっとしたのであった。
釜のスイッチを入れ、みそ汁のダシをとっているころにやっと嫁が起きてくる。
どうだろう、普通ならばそんな事をしたら途端に嫁姑の冷ややかな闘いが始まってもよさそうなものだが、不思議なことにこの家ではそうはなっていない。この件についてはいろいろとあるにはあるのだが、カンタンにまとめると、ばあさんが気にしていないのである。
ばあさんもいろいろ好きな事をやっているので、せめて朝くらいは何も言うまいと決めているらしい。気にしないと決めたら決めたで、今や日常的に普通 の事になっているのである。
朝食の時間になって、やっと家族が揃い始めた。一番最初に顔を出すのは決って長男である。長男は結婚してから一旦は外で暮らしていたが、じいさんが亡くなったのを機会に家に戻ってきた。
長男に続いて孫達が顔を揃える。一番最後に起きてくるのが未だ独身の次男である。次男というのはたいていどこでものんびりしている。こないだだって、3年程音信不通 になったかと思ったら不意に帰ってきたりして親を驚かせたりもした。
「ばあさん今日は何処かへ行くんだったっけ。」
「そういえば総合センターであやめの会がありましたわね。」
「確か10時に集合でしたかしら。」
「ボクも行くー。」
「だめだめ、今日はお兄ちゃんだけだ。」
今日は町民総合センターで町内会の児童工作教室があって、じじばばの集団である「あやめの会」がそれを取り仕切る事になっているのである。さてさてどうなることやら。
注意:
なお、今回登場中の場所及び地名等のモデルは存在しますが、登場人物は全て架空です。つまり、つくりものなの。悪しからず。
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