その前塚町の家での生活は、なにしろその長屋に住んでいた限り結局最後まで電話が無かった事から考えても、質素そのものだったのではなかろうか。この頃の住所録を見ると、『呼び出し』と但し書きがしてある電話番号が多く、それはむしろごく普通の事だった。ウチも同様で、緊急の用事の際はいつも隣の家で呼び出してもらっていたし、割と普通に隣りの電話を借りに行ったものだ。この『呼び出し』状態はその後も続き、記憶によれば小学校3年くらいまで続いたと思う。だからその我が家に初めて電話が登場した時はもう大変な大騒ぎ。どこでもやるように、そこら中に電話してたような気がする。その電話は今ではレトロな黒電話である。そして電話が掛かってくるのが楽しみであり、また怖くもあった。電話を掛けても掛かってきても緊張した。そういう恐怖的感覚が相当に強かったせいか、恥ずかしい話だが、高校を卒業する辺りまで電話することが苦手だった。特に女子の家に電話でもかけようものなら顔が真っ赤になって、てんで言葉が出ない始末。
電話も遅かったが、テレビもまた遅かった。マンガの番組があると、近所の友達の家に行ってテレビを見ていたようだ。当然白黒テレビの時代である。それから、多分まだ洗濯機は無かったような気がするが、冷蔵庫はあったのではないだろうか。そして今の家庭では殆ど絶滅してしまった足踏み式のミシンがあったり、またまたその当時の流行で購入したのはいいけれど、殆どまともに使った事が無いのではないかというレース編みの機械があった。あったのだが、きちんと稼働していた記憶が無い。流行っているから購入してみたものの・・・というやつだろう。多分。
言い忘れたけど、その我が家には自家用車が無かった。その当時商売でもしていないならば車が無いのは仕方がない事。だが、その後現在に至るまで今もなお私の実家には車が無いのというのはかなりフツーではない。ついでに言うと、私の両親は現在でも免許証を所持していない。私の家は名古屋市中区の大須の近くにあったので、栄へも、金山へも、あるいは名古屋駅へも歩き、もしくはお手軽に自転車で十分だったし、市電や、市バスや、開通して間も無い地下鉄が必要にして十分に発達していたので、出掛けるには何一つ不自由しなかったのである。つまり、車が必要なかったのだ。この事実はかなり重要事項。そのため、よく考えてみりゃ何だかんだで年間に相当の額になる車や駐車場や付帯する税金や保険等に関する一切の経費を支出する必要が無かったのである。そのおかげと言ってはナンだが、ビンボーながらも最低限以上の生活は保証されていたような気がする。
前塚町のウチのすぐ隣には、小さな貸本屋があった。貸本屋とは言っても昔からの『お隣さん』であるから、その店先にまるで自分の家のように入り浸っての立ち読みは何のその。いつもずーずーしく店先に座り込んでひたすらマンガを読んでいた。しかしながら果たしてその本代のお金をきちんと払ったかどうか定かではない。でも多分母が払っていたのではないだろうか、と信じている。その頃に読んでいた本は「サザエさん」や「いじわるばあさん」や「おそ松くん」や、得体の知れないな野球漫画や、忍術漫画。そのような怪しげマンガを多数読んでいたような記憶があるが、残念ながらタイトルを思い出すことは出来ない。こんな幼少の頃から漫画を読んでいた私は筋金入りの漫画好きだと自負してい
る。
当時通っていた保育園は、ウチから歩いて10分程の栄国寺という寺のの中にある。いわゆるお寺が経営する保育園で、名前を松原保育園という。この保育園は当時からスクールバスがあり、幼少ながら乗りたくてしょうがなかったが、残念ながら最後まで乗る機会が無かった。だから2年間の通園はずっと歩きという事になり、今歩くとなんでもない距離なんだけど当時はすごく遠くという感覚があった。何度も言うが記憶というものはそんなものだ。
ずっと後に知ったことだが、この栄国寺というお寺はキリシタン関係のお寺で、敷地内にはキリシタン資料館が併設されている。歴史的観点からすると、小さいながら割と有名な寺だったようだ。この資料館は現在でも希望者は見学できるらしいとある。あと、ここの本堂の前には人形を供養するお堂(?)があって、中を覗くとその薄暗い中には古びた人形が数多く並んでいる。しかもそれらの人形の目が皆こちらを見ているので、なーんか薄気味悪く、その前を通る時は下を向いて、なるべくそのお堂を見ないように、足早に素早く通過したものだ。
その保育園での生活はどうだったのだろうか? 残念ながらこれもあまり記憶に無い。ただ、保育園という所は今でもそうだが、教育というよりも人格形成の方に重きを置いている。良く言えば自由奔放、言い方を変えると放任主義となる。だから、どちらかというと好き勝手に遊んでいたような気がする。多分。
かつての私のウチの周りには幼稚園が多く、目の前の万福寺もかつては保育園を経営していたし、すぐ近所にも西本願寺幼稚園があったし、松原保育園の少し南側には東本願寺幼稚園があり、どちらも今で言うところの「スモック」を着ていた。私はそれを着たいと密かに憧れていた。というのも、松原保育園の制服はシャツに半ズボン、生意気にも紺色のブレザーを着て、しかもネクタイにベレー帽という、それだけ見たらまるでいいとこのお坊ちゃまと勘違いされそうな服装だった。たいていの人はその方がいいじゃあないのと言うが、子供にしてみたら窮屈で仕方がなかったのではないかと思う。
それにしても、家がビンボーのくせに、なんでそんな制服の保育園に入れたのかな? 今も昔も保育園制度は同じで、ビンボーな程保育料が安かったのかしらん。でも制服の類いは実費だと思うが。ちなみに、この保育園は現在も健在であり、当時平屋だった園舎も今では鉄筋の3階建てになっており、その業務拡大ぶりには驚くものがある。昔の面影なんて一かけらも無い。
先日本当に久しぶりにその場所を通ってみたのだが、かつて不気味で怖かったお堂は今もなお健在であった。中を覗くとかつてと同じように人形が奉納されている。なんだかその空間だけが昔に通じているタイムトンネルのようだった。
- 山劇 No.125 クックパッドの新サービス「Holiday」について
- となりの山劇 No.143 怪しい業界用語辞典 その2
- となりの山劇 No.142 怪しい業界用語辞典 その1
- となりの山劇 No.141 桃色印のお仕事 その8
- となりの山劇 No.140 桃色印のお仕事 その7
- となりの山劇 No.139 桃色印のお仕事 その6
- となりの山劇 No.138 桃色印のお仕事 その5
- となりの山劇 No.137 桃色印のお仕事 その4
- となりの山劇 No.136 桃色印のお仕事 その3
- となりの山劇 No.135 桃色印のお仕事 その2
- となりの山劇 No.134 桃色印のお仕事 その1
- となりの山劇 No.133 むふふなお仕事
- となりの山劇 No.132 怪しいお仕事
- となりの山劇 No.131 アダルトなお仕事
- となりの山劇 No.130 車が無い生活
- となりの山劇 No.129 話にならない話 その12
- となりの山劇 No.128 話にならない話 その11
- となりの山劇 No.127 話にならない話 その10
- となりの山劇 No.126 話にならない話 その9
- となりの山劇 No.125 話にならない話 その8