2013年02月02日

山劇 No.018 あの頃のワシ その1

山劇/となりの山劇シリーズ
記憶はないが物的証拠が残っている

記憶の外の話

 私は名古屋市中区の病院で生まれた。それが何時頃であるかとか、どんな状況だったかはなんてことは・・・知ってるわけないですよね。その時の状況を母に尋ねた事もあったのですが・・・

 「そんな昔の事は忘れた」

 あっさり言われてしまったのでした。その当時の自宅は大須観音から位置的には南。西別院(西本願寺名古屋別院)の南門からさらに南側に歩いてすぐの場所に位置する万福寺の路地の中にある貧乏長屋の一つで、言うまでもないかもしれませんが、借家でした。その場所を当時の地名で言うと「前塚町」と言い、この地名の由来は、昔々なんでも西別院の敷地内に大きな塚があって、その前だから前塚町だという絵に描いたような話を誰かから聞いた事がありますが、本当かどうか確認したわけではありあません。

 その自宅から自転車で10分程の岩井通り(現大須通り)の電停(路面電車のこと)近くに母方の実家があったんですね。私がごく幼少の頃、父も母も共に働いていたので、祖父が毎日早朝に自分をウチ迄自転車で迎えに来てくれて、夕方まで預かってもらっていたらしいんですよね。

 その祖父はその昔、東区の東新町辺りで喫茶店を経営していたらしい。しかしながら戦争の際に空襲で焼き出され、流れて流れて岩井通りに落ち着いたという話を母から聞いた事がある。その岩井通りの家は商売をしてまして、お店ではまんじゅうやおはぎ、飲料等を売っていたそうです。また、私の母はこの実家の長女であり、その下に2人の妹、3人の弟がいて、特に一番下の弟は当時は中学生だったので、特に私と遊んでくれたという話です。

 その祖父の店での生活は、おとなしく聞き分けのいい子だったと自分では信じて疑わないのですが、残念ながら証拠の写真が残っているので誤魔化しようがありあんせん。

 その写真の私は、祖父がおはぎを作っている横に座り、売り物の筈のおはぎを何故か手掴かみで食べている姿であり、ラムネを飲みながら表通 りを練り歩いている姿であり、何故かは知らないが泣いている写真であり、たくさんのお兄さんお姉さん達に囲まれて得意になっている姿であり、カマドの薪を1個づつ三輪車で運んでいる姿でした。例外はあるけれど、今では自然にセピア調になってしまった殆どの写真の中の私は、何かしら食べ物か飲み物を持っていた。なにしろ祖母にとっては一番最初の初孫なので、他のどの孫よりも可愛がっていたと、私の叔父、伯母の全員が証言している。どうやら逃げ道はないらしい。

 この当時、かすかに階段から落ちたという記憶が残っている。これは後に知らされたのだが、階段の最上段からなんと前向きに落ちたしい。しかし幸いなことに、奇跡的にどこも怪我をしなかったという。また、この岩井通りの家には1匹の猫がいたが、この猫と遊んだ覚えが全く無い。何故だか猫の方から真っ先に逃げて行ったという。何故だろう。自分にとってこんな快適な生活は、保育園に入る迄続いたというから、少なくとも2年間以上は岩井通りの家に世話になっていた事になるのではないか。

 岩井通りの家はそれから暫くして東区長塀町に引っ越したが、その時にこんなエピソードがある。それは、一番下の3男の中学校の修学旅行と、この引っ越しが重なってしまった。しかし、その引っ越し先を3男に知らせるのを忘れていたため、修学旅行から帰って来た3男は、誰も居ない玄関前でぼーぜんと立ち尽くしていたという。それで、冷静に考えた結果、近所にアネキの家がある事をやっとこさ思い出し、まっしぐらに私の家にやってきて、アネキ(私の母)に引っ越し先を聞いて、ようやく新しい家へと向かったという話。ホンマかいな。この当時中学3年だった3男は、私のツーレポに時々登場する「叔父」であり、現在も年に数回は一緒にツーリングに出かけています。

 さて、このような大雑把さはこの家の血筋。良く言えば大胆、悪く言えばえーころかげんという性格は私にも多少なりとも遺伝しているようです。困った。



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ラベル:山劇 昔話
posted by サンタ at 10:43| Comment(0) | 本家山劇/となりの山劇 | 更新情報をチェックする
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